すーぱーさまーちゃん七変化
今まで音楽に人生の重きを置いてきたのですが、今年はそれを変えてみようとしています。
変わらず作曲や練習はするけど今まで避けてきた他の事にも取り組んでみようという魂胆です。
具体的には料理とゲームと旅行の3つです。
遊んでるだけやんけ!という感じなのですがそうなのです。
子供の頃から不器用だった僕は、1つの方向しか向けないタイプだったので13歳の頃ギターを手にしてから練習をサボるわけにはいかないと強く思い今まで生活していました。
そんな真面目に練習していたかというと何とも言えませんが、、、
それでも他の作業をしている時間が億劫だと感じる事が増えていってました。
視野は年々狭くなり気がつけば強迫観念に溺れていました。
今までの方法が無駄だったとは思わないけど、もっと効率良く出来る気がしたのです。
まぁ良く言えば卒業ですね。
新しい事を初める事によって余裕とか狭くなった視野が多少広がるのではと思い、今までの生活を変えてみました。10年ぶりに自転車も買いました。
旅行もゲームも楽しいです。料理はおもんないけど自己肯定感は上がるから悪くないなと思ったり。
生活も趣味も仕事も音楽も全部ケースに入れて出し入れできるぐらいが一番いいのかもしれませんね!!!!!!?????
夏を走らせる。
寒い冬が終わり春が訪れ夏の足音が街から聞こえてきた5月末。
早く夏がこい!!!
自分の境遇や環境が変わる事のみを「変化」と捉えてきたのですが他者の環境変化も自分に影響を与える「変化」の1つであると認識を改めました。
自分が何か目標に向かっているのと同じように誰かもそうしている事って言葉にすると当たり前でもそれをちゃんと理解できているのかどうかは別ですね。
当たり前すぎて、今日まで僕は理解出来ていませんでした。
周りが転勤や引っ越し、または転職をする事は今までそれなりにありましたが、時たま羨んだりするぐらいで他人の話だと思い生活していました。
しかし自分に影響を与える他者の変化を見た時、全ての人の行動は自分に関わってくるのだと気付かされました。
僕達は常に自分中心で物事を考えてしまいがちです。
自分中心に他人と比較したり、または仲良くしたり。
自分を中心とするのではなく、俯瞰して人間関係や人生を見た時にそこにあるのは自己の後退や劣等感ではなく、お互いの変化とその影響であるのだと、、、(そもそも自分の変化には気付きにくい)
上手に言葉にするのは難しいですけど、こう考えると何となく物事を前向きに捉えられる気がしませんか?
これから出会う沢山の人達からの影響を受ける事が出来ると思うと生活するのも満更でもないですね。
極力塞ぎ込まずに寛容に大きいな視点をもって誰かと関われたらきっと大概の事は前向きに解釈出来るはずなので僕も誰かに与え、与えられていると意識しながら日々過ごして行こうと思いました。
きっと今年も最高の夏になるはずだ。
昼過ぎの様な空気感を。
ここ最近改めて2000年のアニメや漫画、ゲームに触れていました。
90年代後半生まれの僕がそれ等に明確に興味を持ち出したのは2009年以降ですが、過去の作品を遡るタイプだったのもあり、僕の青春は00年代のオタク文化にあったわけです。
当時の作品は今思うとノリが少し寒かったり、展開が突拍子もなかったり無理やりな部分が多かった気がするのです。
実際に学生の頃に見ていた時も何となくそんな気持ちを抱いていました。
でもそのちょっと恥ずかしくなる様なセリフとか訓練された部隊が中高生にコテンパンにされる等、そんな部分に強く時代を感じるし、それが多分良いのかなとも思います。
こう感じるのは時間が経ってしまい思い出になったからなのもあるとは思いますが…
別に過去の作品は今のものより素晴らしいと言いたいわけでもないし毎日見たいとは思わないのです。
でも時々、自分にとって「実家のような安心感」がある過去の時間に触れたくなる事もあるのですよ。にぱー。
繋がり中毒の僕達
何かをしていないと気持ちが落ち着かなくなった。
時間を無為にしていないか不安になるからだ。スマホはその何かを埋めてくれる。
しかしそこで消費される時間が有意義なものだったと思う事は多くない。
高校生の時に初めてスマホを手にしたが振り返ると、その時も長時間使用はしていたものの、中毒かと言われるとそうではなかった。
今は気が付けばSNSを開き、YOUTUBE にアクセスし、ネットサーフィンをしている。
意識的に遠ざけても無意識に開いてしまっていた。
いつからこうなってしまったのだろうか。
高校生の時にスマホを手にして10年近く経つうちに習慣になってしまったからだろうか。その習慣が生活や自分に侵食してしまっている感覚がある。
SNS等で得られる繋がりはあまりにも魅力的すぎる。
本来人間は生活していると一人の時間がどこかで生まれるはずだが、SNSがあればそれを無くすことが出来る。その世界に足を運ぶと誰かが何かを投稿しているのを見たり、話す事で安心感や楽しさを得たり時には不安や焦り、自己嫌悪に陥ったりする。しかし繋がりを介して発生した感情は必ずしも自分自身のモノではない。
増えすぎた繋がりは孤独を必要以上に遠ざける。
過去の人達が持ち合わせた孤独(自分自身と向き合う時間)を現代を生きる僕達は意識的に作り出す必要がある。
しかしそれは繋がり中毒の僕達には圧倒的に難しくなってしまった。
自分と向き合わず他者とばかり繋がり、そこで得た思想や感情のみを集めて形成された自我は果たして自分の物なのだろうか、本当の自分と言えるのだろうか。
一日、数分でも全てをOFFにして自分自身と対話する為に、各種の依存を切り離す方法を見つけ実践しないとそれこそ無為に時間が過ぎていってしまいそうだ。
眠れない夜にコーヒー。
眠れない夜ほどコーヒーを飲みたくなる。
暖かいコーヒを気にせずのんで
出来てなかった作業をしたくなる。
きっと朝に後悔するから眠る。
今日も明日も、毎日を浪費していく。
後悔する時は終わりの手前。
すーぱーさまーちゃんのギターの探し方②
高校3年生の年になった僕はまだテレキャスターを弾いていた。
しかし僕の関心はテレキャスターからストラトキャスターに向きつつあった。
ストラトと言ってもSSHのモダンタイプのものだ。理由は高2の冬からギターを習い始めた僕の師匠が使っていたから。充分だろう。
その影響でハードロックや速弾きに傾倒していたのもあり、弾きやすいギターが欲しかった。
フジゲンというメーカーがあって安価でセミオーダーが出来るよ。結構評判もいいみたいやし。
その言葉に飛びついた。
形状は固定だが自分が好きな色、パーツのギターが手の届く額で買えるなんて。
ある種の夢が叶うわけだ。
少し悩んでギターを注文、数ヶ月待ちハードケースに入ったそれは届いた。
フジゲンのeos のssh 見た目は全て自分好みの物。
ネットで買ったので博打だが当時の僕は師匠の言葉を信じ切っていた。
結果は音も手持ちのギターの中では圧倒的に良く、さらに弾きやすい、ルックスも高級感がある。
リアのハムはギャンギャンに歪むしフロントは煌びやかでアルペジオやカッティングが気持ち良い。
なぜテレキャスに拘っていたのかとすら思った。
もう当分新しいギターはいらない。
しかし、このストラトを弾き始めた少し後から自分の中での理想の音や、その他の条件がぼんやりと浮かび上がり始めた。
18歳の僕のギターの探し方は
憧れに少しの理想が加わったものだった。
つづく、、、